第三部・二十歳の八月

私は人間どもをだましながら、己れを生きさせているのだ

だまされているバカなヤツラヨ

バカも愛を知っているものに対しては

お互いに だましあいつつ生きてゆくのだ

 

「独りである」とあらためて書くまでもなく、私は独りである。

 

[#地から1字上げ](六月二十日 快晴)

 

「再構成」

 

このノートを燃やそうという考えが浮んだ。すべてを忘却の彼方へ追いやろうとした。以前には、燃してしまったら私の存在が一切なくなってしまうようで恐ろしくて、こんな考えは思いつかなかった。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。それは真の自己に近いものとなっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっているからであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ。

 

私の現在は未来の中にある

過去へ行くことも可能だが

あくまでそれを迂回して

遠くに来たかと思ったが

 

ぼくにとっては自民党共産党も同じです。すべて偽善の象徴です。

 

[#地から1字上げ](三島由紀夫、最後の言葉・新潮カセットブック)

 

「書評待つ間」

 

戦後のことだったと思うが、太宰が井伏鱒二に、「ぼくは恋愛をしてもいいでしょうか」と聞いたという。「そんなことはキミの勝手じゃないか」と井伏は答えたことになっている。別の対談では「どうして戦後、あんなにも太宰が女性にモテたのか、わからない」という井伏の回想も残っている。

 

 独り句の推敲をして遅き日を 高浜虚子

 

「夢の中にキミがいる」

 

笑っているUSBのメモリー

時代は持ち去ることも簡単だ

 

数学にされて暗号みたいな愛もある

解答は電気に流してノートに書こう

 

光っていても、技術は、斜めからは見えないよう

どうか後ろから、僕らの見ているその先を読んで

 

「どうでもいい二回目の小山田」

 

中村がきて、歩いて下宿まで帰る。中村はいった。「戦争になったらどうするか」と。それに対する私の答えは今考えるときわめてあいまいな答えだったようだ。戦争反対、絶対反対ということは明白だったのに。それから、中村は「かっこ(注 悦子さんの愛称)は自分を見失っているのではないか」といった。それはひどい言葉であると思う。全く中村風の、人は人、己れは己れ、のつき放した言葉だ。/三、四月の頃は、本当に自分自身がわからなかった。……

 

[#地から1字上げ](五月二十六日)

 

2009年夏、中村がきて、歩いて下宿まで帰る。中村はいった。「戦争になったらどうするか」と。それに対する私と福島瑞穂氏の答えは、今考えるときわめてあいまいな答えだったようだ。戦争反対、絶対反対ということは明白だったのに。それから、中村は「かっこと社民党は、自分を見失っているのではないか」といった。それはひどい言葉であると思う。全く中村風の、人は人、己れは己れ、民主党民主党、その他の野党は生涯野党、のつき放した言葉だ。国家観など持たないということが、即ち、われわれの国家観なのである。結婚だって事実婚。駄目なものは絶対に駄目!/けれども当時の満代さんのこころは、本当に自分でもわからなかった。今、私は強大な国家権力の前で、いかにしたらそれをぶっつぶすことができるのかと、もがいている状態なのに。そして、わからなければ、余計なんらかの行動をしなければいけないのだと、あらためて思い、そのぶつかり合いというものを、カーリングのストーンに求めている私は、すでに2010年の冬の話をしているのです。うふふ。

 

[#地から1字上げ](ニセ悦子)

 

ぼくには、なぜ高野さんが、最後、あんな体当たりになったのか、今でもわからない。もしかしたら、あの時、「逆鉾」で食べたちゃんこなべが悪かったのか。だとすれば、彼女の死に対して、ぼくにもその責任がないとは言い切れない。チーズ、いや、そうなのだ、あるいはぼくがこの事件の真犯人なのかもわからない。ああ、誰か、眠っている間に、そっとぼくの首を絞めてくれるものはいないか。バター。

 

[#地から1字上げ](小山田)

 

きのうは一日中ぶらぶら。「ろくよう」「ダウンビート」その他で過した。きのうのいかにも深刻ぶった顔を考えると吹きだしたくなる。自己完成のために――といったって、人間は結局死ぬんじゃないか。土になって終いにくち果てるのだ。とかなんとかいいながら、めい想にふけったりしちゃって、漫画そのものでした。

 

[#地から1字上げ](五月二十六日(月))

 

悲劇の誕生

 

そして次の朝、静かに言葉をかわすこともなく別れよう。それから私は、原始の森にある湖をさがしに出かけよう。そこに小舟をうかべて静かに眠るため。

 

[#地から1字上げ](六月二十二日)

 

この高野さんの記述は明らかに最後の「旅に出よう」の詩の内容を指している。ということは、この時点で、この詩はすでに完成していたことになるだろう。それでは、この詩は、いつ、作られたのか。

 

バイト後ピアノを弾く。ソナチネだの愛の讃歌だの、ショパン夜想曲。笛がほしい。やわらかいあの響き。エディプスの吹いたあの笛の音。

 

[#地から1字上げ](三月二十五日)

 

出発の日は雨がよい

霧のようにやわらかい春の雨の日がよい

萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら (「旅に出よう」)

 

日記に「笛」が出現するのが三月二十五日、そして、詩にあるように、「出発の日は…、春の雨の日がよい」と符合させれば、この詩の制作時期は大体の見当が付くことになる。

 

[#地から1字上げ](とはいえ、ここまでだったら誰にだってわかります)

[#地から1字上げ](じれったい、では、何が問題なのですか)

 

人間の歴史がはじまって以来、多くの人間は何かの力に支配されながら、何かを生み出そうとし、創造してきたのでした。/何を私はいままで焦っていたのでしょうか。考えるとふしぎです。/それでは、私は何を創造しようとしているのでしょうか。それを考える必要があります。

 

[#地から1字上げ](六月十八日)

 

[#地から1字上げ](じれったい。では、何が答えなのですか)

 

人は何故生きていくのかって考えてみました。弱くて醜い人間が、どうして生きているのかって思いました。私はこの頃しみじみと人間は永遠に独りであり、弱い――そう、未熟という言葉があります――その未熟なのに、いやらしいエゴを背負って生きていくのかって思いました。私もどうして生きているのかと思いました。つまらない醜い独りの弱い人間が、おたがいに何かを創造しようと生きているのだと、今思いました。いろいろな醜さがあるけれども、とにかくみんなで何かを生み出そうとしているのです。何かを創造しようとして人間は生きているのです。

 

[#地から1字上げ](六月十八日)

 

[#地から1字上げ](このような考えの人が自殺するとは思えない。それが第一部の事実)

[#地から1字上げ](第二部は、六月二十三日の夜。――では、どうするのか)

 

「竿頭子羊」(八月六日)

 

高野さんの『二十歳の原点』三部作はもともと草稿のような彼女のノートを父親の三郎氏がまとめたものであった。その際に、実名を仮名にする以外、文章における脚色などは無かったと思われるが、そのことが今となっては高野さんの思想の本質を見えなくさせている嫌いが感じられるのである。われわれは残された彼女の文章を二十歳の女子学生の手になるものであるという先入観なしには読むことができない。そのために、迂闊な読者は、そこに彼女の短い命の輝きのようなもの(実存)を見ることは容易いが、表面的な稚拙さがその手記を読むことの現在的価値を隠蔽している事態には気が付かない。問われているのは、古きよき時代への感傷ではないのである。彼女の中で戦われていたのは伝統的なキリスト教マルクス主義との相克であった[#「彼女の中で戦われていたのは伝統的なキリスト教マルクス主義との相克であった」に傍点]。今となっては、学生運動などこの三部作にとっては狭雑物に過ぎないだろう。同様にして、作中の「中村」の存在などもはやシャツの三つ目のボタンの価値しか持たないのではないか。だから、この本がこれからも未来への企てを自らに欲するのであるならば、草稿的本文の再構築をもって、その目指すべき地平を、もう一度、そのものによって切り開かれなければならないのである。1960年代という歴史的事項に註を施す程度の新装でよみがえるような忘却ならば、いっそのこと、この日記のすべてを忘れてしまった方が彼女にとっては本望なのだと思う。とはいえ、そんなことを言いながら、明日も再びぼんやりと一日を過ごすのだろう。それでは何を期待しているのかいえば、何もないらしいということだけが確からしい。

 

[#地から1字上げ](鈴)

 

「クスクス」(Wait & See)

 

目を閉じて擦れ違うときは

少し休んだ方がいいだろう

やるべきことがおおすぎる

理由が消えた訳ではないが

 

「(FINAL)DISTANCE」(距離の終わりで)

 

壊れたリンクで

海のような通路

間をつなぐのは

見えない 想い

 

「りばいばる」(草稿)

 

私はまだ死んでいない。いや、死ねないのである。ひたひたひた。中村が憎い。中村は、今、どうしているか。ひたひたひた。絶版にした出版社はどこだ。泣く子はいないか。ひたひたひた。ここは暗い。どこまでも暗い。ほうほうほう。冷たいし、何も見えない。私のギターも濡れてしまった。ほうほうほう。私は今年、六十になった。今でも男を求めているぞ。寂しいぞ。ふるさとは、遠くにありて思うもの。あれ、ワタシ、帰って来たーーんヨ!?

 

もう一回、火の熱さを感じたら

ファイト? がわくだろう

さあ やってみろ (二月八日)

 

カッコ、カッコだったらどうする?

私? 私だったら、いっしょに死ぬね。

ええー、誰と誰とおおお?

エヘヘヘ。フヘヘヘ。うひゃひゃひゃひゃ。

 

「たまちゃん」

 

玉川にたまのいのちの流れきてたまたまゆゑにたまと名つかる

 

二十歳の原点・玉命」

 

今、最後に私がしようとしていることは、あなたについて私が書いた言葉をあなたへおくることです。

 

[#地から1字上げ](E)

 

「高野さん、それは無茶だ、たまちゃんは字が読めない」

「樹里金さん、いいじゃないの、彼女の好きにさせてあげて!」

「のんさん、こういう、死者からの言葉に従ってはいけないのだ」

「樹里金さん、松谷みよ子著『異界からのサイン』の教訓ですか」

「のんさん、よくわからないがどうもそうらしい」

「樹里金さん、でも、そんな所からのサイン自体が妖しいのではありませんか」

「のんさん、でも、それを体験をしたという以上、嘘をついても意味がないでしょう」

「樹里金さん、あなたもまさか図書館で?」

「のんさん、残念ながらぼくはまだお目にかかったことはありません」

 

「そうか? 木の枝にひっかかっていたのか? それでは犬にも見つからなかったはずだ」

「イヴァン・セルゲエイッチ、これで僕も安心ができる。僕はうそをつくような人間ではない。この鳥も下に落ちていれば、きっとドオラが拾って来たのだ」

「僕だってうそをつくような人間ではない。見たまえ。あの通りちゃんとしとめてあるではないか? なにしろ銃が鳴ると同時に、石のように落ちて来たのだから、――」

 

二人の翁は顔を見合わせると、言い合わせたように哄笑《こうしよう》した。

 

[#地から1字上げ](山鴫)

 

「あたったかね?」

「あたったとも。石のように落ちて来た」

「さがしておいで」

「いないようだね」

「いないわけがあるものか? 石のように落ちるのを見たのだから、――」

「あたったことはあたっても、羽根へあたっただけだったかも知れない。それなら落ちてからも逃げられるはずだ」

「いや、羽根へあたっただけではない。確かに僕はしとめたのだ」

「では犬が見つけそうなものだ。ドオラはしとめた鳥といえば、きっとくわえて来るのだから、――」

「しかし実際しとめたのだからしかたがない」

「しとめたか、しとめないか、そのくらいな区別は子供にもわかる。僕はちゃんと見ていたのだ」

「それでは犬はどうしたのだ?」

「犬なぞは僕の知ったことではない。僕はただ見た通りを言うのだ。なにしろ石のように落ちて来たのだから、――」

「Il est tombe comme pierre, je t'assure!」

「しかしドオラが見つけないはずはない」

「ではそう願うことにしましょう。明《あ》日《す》になればきっとわかります」

「そうだね明日《あした》になればきっとわかるだろう」

 

[#地から1字上げ](山鴫)

 

文字の霊? のんさん、そんなものがあったら面白いでしょうね。ぼくは、暗くなる前に帰りますから、何も怖いものはありません。平田オリザさん、あの時の、あの中学生の第一印象は、案外、当たっていたのかもしれないのですよ。じゃあ、失敬します。

 

「メガネザル」

 

目を閉じること。ぼくはかつてメガネザルが枝から枝へ跳躍して昆虫などの獲物を捕獲する時、その瞬間、両目を閉じるという話を聞いて、その迂闊さを笑ったものだったが――だって、それでは獲物を取り逃しかねない――その理由が、自分の身体の中で最も大切なものを守るためであると知った時、かえって、ぼくのその第一印象の愚かさを恥じなければならなかったのである。もっとも、彼らは誰に教えられることもなくプログムされた本能としてそれを行っているのだろう。けれども、おそらくは、そのように、それが後件的な学習行為ではないということが重要なのかもしれない。それでも、何となくメガネザルについてはぼくの知識は未熟である。

 

「竿頭子羊」(八月八日)

 

惰性でこのコラムに向かうようで嫌だがとりあえず書いて置くことにする。『二十歳の原点』のような本は関係者が居なくなるのに比例して読者の数も減っていくものだろう。ちなみに、高野さんの母親は活字になった『二十歳の原点』はこれまでに一度も読んだことがないらしい。ところで、先に筆者が関係者と言った意味は必ずしも高野さんの知人だけとは限らない。例えば、彼女の略歴に名の見える『大学でいかに学ぶか』の増田四郎氏や本文で否定されている詩人・吉野弘氏なども筆者の言った関係者のそれに含まれる。当時、この『二十歳の原点』がベストセラーになったことで、図らずも、彼らは高野悦子という女子大生の短い人生に向き合わされることになったのではないだろうか。もともと彼らは赤の他人であるが、著名人の人生とはそんなものだろう。ましてや彼らは誠実なのである。増田氏の随筆や吉野氏の詩作品には、確かに、この二十歳の著者のベストセラーを読んだ結果と思われる痕跡を見ることが出来る。さらに想像するに、このベストセラーが当時の詩壇に与えた影響も、よかれあしかれ、大きかったのではないか。筆者は、今日、図書館で黒田三郎の詩の中にも彼女に対する名指しのないレファレンスを認めた。空想かもしれないが、筆者はそれを、1971年以後の田中美知太郎や司馬さんのエッセイなどにも読み取ることが出来ると、少しくらい、信じている。ところで、筆者の「よかれあしかれ」という言葉に疑問を持つ読者もあるかもしれないが、筆者は、この『二十歳の原点』という手記を、悲劇、お涙頂戴、かわいそう万歳という好意だけでは読み終えることが出来ない。影響には作用もあれば反作用もある。もちろん、彼女が二十歳の人生を精一杯、彼女なりに純粋に生きたことは事実だろうが、彼女が最後に下した結論のようなものは、それだけが必然の方途であったかどうか、今でも筆者の疑問になっている。

 

 ラガー等のそのかちうたのみじかけれ 横山白虹

 

現代社会に自由は存在するか。集会、結社、信仰、表現の自由日本国憲法で認めているではないかと人はいうかもしれない。しかし、大多数の人は自己の労働力を商品として売渡すことによってのみ辛うじて生活を維持しているという現実をどう理解しているのだろうか。彼らは労働によって、生命の充実感を感じるどころか疎外されているのにすぎない。現代の大多数にとって労働は疎外であり、生きてゆくために受ける疎外である。彼らが生きてゆくことができるか否かは、資本家が彼らの労働力を必要とするか否かできまる。では彼らにとって自由とは何であるか。

 

[#地から1字上げ](六月十二日 ET)

 

 音絶えしこの音が雪降る音か 有働亨

 

以下は「安部公房全集第30巻・月報」の三浦雅史氏の受け売りであるが――マルクス主義の間違いではない――マルクス本人の大きな間違いは「労働力=商品」という公式であったらしい。むずかしいことは置いて、引用した箇所の高野さんの文章を批判すると、余計なお世話なのである。高野さんとは違う人間が、それぞれどんな感情を持って働いているか、何に生命力の充実感を感じているか、余計なお世話なのである。序でに言いたくもない小言も言わなければならないが、そもそも普通の大学生がわざわざ睡眠薬を飲んでまで、夜、眠る必要などがあるのだろうか。黒田三郎は言っている、君は、眠られないまま列車に乗って、知らない町で夜明けを迎え、朝、仕事場へ急ぐ通勤者を見たことがあるか、みたいなそんな詩の一部分。神がなんだと言う前に、吉野弘氏はすでに苦労人であったはずである。吉野氏は七一年以後の「伝道」という詩の中で言っている、買っても読まない本などいらない、みたいなこと。別段、「神」など持ち出さなくとも、詩の言葉というものは厳しいものだと筆者は思う。とはいえ、前提そのものが筆者の独断かもしれないが、吉野弘氏も、黒田三郎も、高野さんの『二十歳の原点』の中に詩人の原石をみたからこそ、それぞれ作品の中で応答したのだとも考えられる。だから、『二十歳の原点』の場合、新装されるべきは、本の体裁や帯ではなくて、テクスト自体の読み方なのだと思われる。

 

[#地から1字上げ](鈴)

 

「日曜日には間に合わず“Moon River”を一人聴く」

 

なんでもなかったこんな日も

いつかなつかしいと思う日も

 

二人に来るとも思われないが

動く緑を騒々しい未来の棚で

 

Moon river wider than a mile

Im crossing you in style someday

 

翻訳するのは保留した

間違っていたらゴメンナサイよ

 

月の流れが変わる時

様式として交差する

 

You dream maker, you heartbreaker

Wherever youre going Im going your way

 

夢破れて山河あり

君行く所道になる

 

Two drifters off to see the world

Theres such a lot of world to see

 

世界を見るか、二階へ行くか

いや、もう少し様子を見よう

 

Were after the same rainbows end

Waiting round the band

 

待てば海路の日和あり

ここなら同じ虹も出る

 

My huckleberry friend, moon river

And me

 

冒険する気は無いけれど

分った気分になっている

 

「九日(日)の読書」

 

松谷みよこ『異界からのサイン』から死んだ知人が雨の日に二階の窓の外に立っていた話。司馬さん『街道をゆく・長州路』から「海の道」。プラトンの『国家』の解説本(木田元が訳したやつ)。アリストテレス「エウチュデモス倫理学?」(題名を忘れた。とにかく、ニコマコスでない方)。ハイデガー存在と時間』(原・渡辺訳)。アウグスティヌス詩篇注解』。今日の「黒田三郎」は郊外でリスを見たという詩。後でそれは飼っていたペットが逃げ出したものだったことをニュースで知り、何となく気の抜けたような気持になるが、後から戦争で死んだ知人の従姉妹だという見ず知らずの女性から電話があり、そんな見ず知らずの女性が自分でも忘れていた二十歳の頃の自分を知っていることを知り、というのは、彼女はそれを死んだ黒田の知人から聞いていたからなのだが、少しトキメクという話。その時、黒田三郎五十歳。とすると、この詩は1970年頃の作品か。とすると、『二十歳の原点』を関連付けることには無理があるようだ。やはり――すべては信じられないのであろうか。『詩篇注解』。いや、違う。彼の『告白』の解説本を読んでいた時だったと思う。と、まあ、私の記憶などというものは錯覚のようなものであり、不確かであるという教訓めいた悲しいお話をしたわけであります。それから、最後にマルクス・アウレリウスの『自省録』の解説本を一人寂しく借りて帰った。雨は止んでいたが曇りであった。そういえば、鈴木なら、私の『二十歳の原点』を、アウグスティヌスの『告白』やM・アウレリウスの『自省録』と何処か似ていると言うだろうか。言うわけがない。やはり――アナーキズム。本当は最初に二階のロビーでユングの『意識と無意識の関係』を読んだことを書くべきであったのだ。1927年に書かれたこの論文は嘘みたいに1969年の私のことが書いてあった。

 

体当たりをする

その何とかというやつに

 

自殺をするか殺人に走るか

その心理の根は同じである

 

心的エネルギーが見せる(リビドーの河流れ)

同一現象の表と裏(分かれるでもない分岐点)

 

言っても無駄だとは思うけど

ユングもフロムもそう言った