枇杷むけば――自句自解の効用(その二)

 

枇杷むけば亡き人の来て一つ剥く 岡本眸

 

 

どこの俳句総合誌だったか忘れてしまったが、その誌上で、この句を何だか判らないというような評がされていた記憶がある。それについて弁解しようとか、抗弁しようとかいう気はさらさらないのだが、自分では好きな句なので書いておきたいと思う。

 

亡くなった夫は枇杷が好きで、果物屋の店頭に出廻るころになると毎日のように買って帰ってきた。枇杷のころになると、どうしてもそのことが思い出される。こうした個人的な思い出などは読者は判らなくて当然なのだが、何か食べているとき、生前、そのものを好んだ故人のことを思い出し、眼前に、その人が居るごとく感ずるということは、とくに、家族を亡くした人には判ってもらえる心情ではないかと思う。私には枇杷を剥く夫の指が見えたのである。昭和六十二年作、『矢文』。

 

[#地から1字上げ](自句自解、二六五頁)

[#地から1字上げ](岡本眸、栞ひも、角川学芸出版、2007年)

 

 

この句は「私には枇杷を剥く夫の指が見えたのである」という自句自解がない場合、よくわからない句の典型だと思う。もちろん、自句自解がなくても、読者は、この亡き人はきっと枇杷が好きだったのだろう、くらいの想像はつくかもしれないが、しかし、作者でもない限り、亡き人が出て来て枇杷を剥いた(私には枇杷を剥く夫の指が見えた)とまで言い切るのは無理である。

 

[#地から1字上げ](A評)

 

自句自解には、別に、幽霊が出て来て枇杷を剥いたとは書かれていない。ただ、枇杷を剥く夫の指が見えたのである。常識的に考えれば、作者は枇杷を剥く自分の指を故人の指になぞらえたのだ。だから、この句は作者の虚構と解すべきだろう。とはいえ、枇杷という響きから、「琵琶」→「琵琶法師」→「耳なし芳一」という連想が働けば、そこに幽霊が立ち現われていても一向に不思議な話ではない。

 

[#地から1字上げ](B評)

 

自句自解によると、この時、作者には枇杷を剥く夫の指が見えたのである。ということは、素直に読めば、私が枇杷を剥いていたら、あの世から夫が出て来て、彼もまた一つ枇杷を剥いたという平板なリアリズムになる。だから、この自句自解は素直に読まない方がいい。もとより、死者をいつも身近に感じるという感性を、信じられない人間が、否定するなどは余計なことである。ただ、この亡き人が、あの世ではなく、自分の中から思わず出てきたと解釈すれば、句の日常性は増すのではないか。おそらく、作者もそのつもりで夫の指が見えたと言ったのだろう。

 

[#地から1字上げ](C評)

 

実作者は「私には枇杷を剥く夫の指が見えたのである」と言っているが、本当に「亡き人」が来たのなら指しか見えないというのは不自然である。ある評者によれば、この「亡き人」は、外から来たのではなく作者自身の中から出て来たのであると解釈しているが、それにしても指だけ出て来るというのは、一体、どのような状況だろう。

 

[#地から1字上げ](D評)

 

あの自句自解にはかめ女の相があらわれている。作者の最初の意図は、眼前に、その人が居るかの如く感ずる状況を詠んだものではなかったか。だから、私には枇杷を剥く夫の指が見えたのであるという説明は、さらさらになった作者の後付けだと私は思う。

 

[#地から1字上げ](E評)

 

 

前略 あなた方の解釈の方がかめ女になっているのではないですか。作者が亡き夫の指が見えたと言うのだから、原文のそれをそのまま伝えるのが翻訳の役目なのではありませんか。あなあなかしこ

 

[#地から1字上げ](投書)

 

 

枇杷を剥いていると、亡き人が出て来たので、彼にも一つ剥いてあげた。

 

[#地から1字上げ](即訳)

 

枇杷を剥いていると、死んだ夫が出て来て、彼がその指で枇杷の実を剥いた。

 

[#地から1字上げ](自句自解)

 

この季節になると、枇杷を剥くたびに、枇杷が好きだった故人を思い出す。

 

[#地から1字上げ](意訳)

 

 

枇杷の実の逆らへぬもの宿しけり 鈴

 

[#地から1字上げ](了)