俳句、来るべきもの(夏の月・テイク2)

山路来てなにやらゆかし菫草 芭蕉

憂ひつつ岡に登れば花茨   蕪村

 

ともに人口に膾炙した古句である。行きずりの草木の風情に心をひかれ思わず歩を止めたような経験は誰にもあろう。しかし、もの言わぬ草木が一体われわれに何を語るというのであろうか。事は植物に限らない。浜辺に寄せ来る波、空に行き交う雲にさえわれわれは詩才の有無を問わず無性に或る懐かしさを、あるいは深い安らぎを覚えたりもする。こうした経験はただ詩人や画家に任せておけばよいのであろうか。しかし経験の偽らざる一面を黙殺することは哲学者の本意ではあるまい。とはいえ、「人格」(Person)と「物件」(Sache)、ないし「主体」と「客体」の区別によってわれわれは知らずして経験を矮小化していないであろうか。こうした区別を立てる限り、人気ない山道にひっそりと咲く菫草のゆかしさ、あるいは「旅愁のような……心の茫漠たる愁」(朔太郎)を迎える「花茨の白く可憐な野性の姿」もついに個々人の何らかの心理的内容に還元せざるを得ないが、その場合もはや、われわれが薄々気づき詩人が彷彿せしめる「もの」本来の面目は失われている。

 

[#地から1字上げ](花井一典、超越概念と経験――トマスの場合――、一六五頁)

[#地から1字上げ](中世における知と超越――思索の原点をたずねて――)

[#地から1字上げ](創文社、1992年)

 

急げ……

何もない

だが、ここだ

そうよね

信号が来てるんだから

 

[#地から1字上げ](インターステラー

 

 

夏の月美しきものそれは心 稲畑汀子

 

この句「美しきものそれは心」という恐れを知らぬ表現に驚く。昭和二十七年七月の句という。

 

おもしろいと思った理由は一言でいうなら、ここにあるとおり「二十歳のころのまっすぐな心の表われ」にある。

 

「あの句は北海道で作ったのよ」という話を聞いて夏の北海道の原野を照らす丸く大きな月が目に浮かんだ。

 

この句から浮かびあがってくるのは身も心ものびのびと育った、やや勝気なうら若い女性である。そういう人が北海道の夏の月をみて、あふれてきた心情をそのまま(つまり何に遠慮することもなく)一句にした、そんな感じがするのだ。

 

「美しきものそれは心」とあるが、誰でも知ってのとおり心はそれほど美しいものではない。悪事をたくらむこともあれば人をねたむこともある。それにもかかわらず「美しきものそれは心」という大胆さ、若々しさがこの句には宿っている。

 

いうまでもなく「ホトトギス」には客観写生、花鳥諷詠、季題趣味といういくつかの鉄則がある。しかし当時の作者は、虚子、年尾のもとで文芸においてもっとも大事なもの、いわば「溌剌たる心」を自然に身につけていったのではなかったか。客観写生も花鳥諷詠も季題趣味も溌剌さを欠けば形だけのものになってしまう。

 

ここには将来、虚子、年尾に次いで「ホトトギス」の主となることなど夢にも知らない溌剌とした女性がいる。「夏の月」の句にはそうした若い女性の命の輝きがある。

 

そう考えると、この溌剌たる心こそが昔も今も稲畑汀子という人の魅力の根幹にある。

 

[#地から1字上げ](長谷川櫂稲畑汀子小論、縮約・順不同、一四二頁)

[#地から1字上げ](角川俳句10月号、2012年)

 

 

夏の月/美しきものそれは心 稲畑汀子

 

美しい夏の月。けれども、美しいのは本当に月なのだろうか。いや、ちがうだろう。美しいのは、その月を映す人の心である。なぜならば、私に見えているのは、今も昔も、ただ、私の、その心に映った夏の月、それだけなのだから。

 

[#地から1字上げ](即訳)

 

私はそのとき、哲学者たちが言ういわゆる「他我問題」に目覚めたのか。「他我問題」とは、私が私自身の心あるいは意識を経験するように、他人の心や意識を経験できるわけではないのだから、他人の心あるいは意識をそもそも知ることができるのか、知ることができるとすればどのような認識によってなのかという、哲学問題である。私はそのような問題の存在に驚いたわけではない。私にとっては、私と同じように他人が、この世界に対して意識を持って臨んでいるということは、疑いの対象ではなく、他人がそのような意識を持てるのかという問いははじめから問題ではなかった。他人は私と同じようにこの世に存在する、しかし多分私とは少し異なった意識を持って。私には、私自身の意識の確実性や直接性が、自分自身にとって最も重要で確実な事柄であって、他人の意識は、この自分の存在からしか理解できないという考えが浮かんだことは一度もない。もちろん私は、私に今現在わき起こっている感情が、私をどのように変え突き動かすのか、私が持つ望みは将来どのように実現されるのか、という私自身についての問題から自由になったこともない。ただ、哲学問題として、私自身の意識から、他人の意識へと向かわなければならないということを、考えたことがないのだ。

 

[#地から1字上げ](はじめに、七頁)

[#地から1字上げ](門脇俊介フッサール、心は世界にどうつながっているのか)

[#地から1字上げ](NHK出版、2004年)

 

それでは私には、何が本当の問題であり、驚きであったのか。

 

[#地から1字上げ](はじめに、八頁)

[#地から1字上げ](門脇俊介フッサール、心は世界にどうつながっているのか)

[#地から1字上げ](NHK出版、2004年)

 

目の前に広がっている世界は、確かに私にとっては私自身の意識においてしか接近できないものではあっても、私の意識の内部を超えでてしまっているもの、私が自分の体験の領域のうちに所有し尽くせないものとしてある。いわば世界は私を超越している。他人が私とこの世界を共有していて、私の所有できない他者の意識に対しても世界が繰り広げられていることは、世界が私を超越していることの最も強力な証明ではないだろうか。私にとって問題だったのは、私自身を超越した世界が、その超越にもかかわらず、意識のもとに現れるということ、私や他者の意識を通して姿を現しているということだった。これは、私自身が謎《なぞ》であるということであるよりは、世界が私に現れでる[#「世界が私に現れでる」傍点あり]という謎なのである。

 

[#地から1字上げ](はじめに、八頁)

[#地から1字上げ](門脇俊介フッサール、心は世界にどうつながっているのか)

[#地から1字上げ](NHK出版、2004年)

 

人は、近い人にしか近づけない

世界の五大会を制覇するまでは

仮に遠くを行く人も、琵琶湖では

急がば回れと言っている、増位山

そんなシブコに惚れました

 

[#地から1字上げ](渋野日向子・師範)