俳句、来るべきもの(カサブランカ)

鱸得て月宮に入るおもひかな 蕪村

 

[#地から1字上げ](がたと榾崩れて夕べなりしかな――稲畑汀子

 

お話があります

ここでは

人に聞かれると困るので

出国したいんです

わたしは抵抗運動の幹部として

活動してきました

アメリカに行けたら

もっと活発に動けます

政治に興味はありません

酒場の主人ですから

ご経歴は伺ってますよ

エチオピアやスペインで――

いつも弱者の側に

加勢なさったと

金もうけをねらって

失敗したんですよ

10万フランで、どうです?

駄目ですね

20万フラン

たとえ100万、出されても

答えは同じです

どうしてですか?

理由は奥さんに

聞いてください

奥さんが知ってます

妻が?

 

[#地から1字上げ](映画・カサブランカ

 

それで今は、どうなんだ?

分からないわ

もう離れられない

ラズロは助けてやって

仕事に賭けてる人だから

よかろう

君は渡せない

もう逆らわないわ

一度、逃げたから

もう逃げない

何も分からなくなったわ

代わりに考えて

皆の分も

よし、分かった

君の瞳に乾杯

こんなに愛するなんて……

 

[#地から1字上げ](映画・カサブランカ

 

もう大丈夫

何人か捕まったね

カール、どうした?

会合に踏み込まれまして

来てくれ

裏のライトが消えてない

 

[#地から1字上げ](映画・カサブランカ

 

彼女は君のうそを見抜いたぞ

君には礼を言う

これからが面倒だ

君を逮捕せねばならん

飛行機が出てから

あの電話は何だ?

 

[#地から1字上げ](映画・カサブランカ

 

君も愛国者になったな

ちょうど、いいころだ

おれも、そう思う

しばらくカサブランカから

消えろよ

レジスタンスの支部

送ってやる

通行証をくれるのかい?

賭けの1万フランも頂くぜ

それは、おれたちの費用だ

おれたち?

ルイ、これが友情の

始まりだな

 

[#地から1字上げ](映画・カサブランカ

 

ですから、このような感動は、その映画を見る人の心の中に、この主人公のような男として、あるいは人間としてのあり方をよいものだとする自我理想がなければならない。それがなければこの映画を見ても感動しないということになります。

 

[#地から1字上げ](映画「カサブランカ」の感動と無感動、一五七頁)

[#地から1字上げ](小此木啓吾、自己愛人間、朝日出版社、1981年)

 

私たち昭和一ケタ世代は「カサブランカ」を見ると、そのように感動するわけです。ところが、二十歳の私の娘の反応はまったく違いました。「パパたちが感動することは頭では理解できる。でもパパたちと同じようには感動しない」というわけです。

 

[#地から1字上げ](映画「カサブランカ」の感動と無感動、一五七頁)

[#地から1字上げ](小此木啓吾、自己愛人間、朝日出版社、1981年)

 

娘のような見方は、いわゆる「しらけ」ということにつながっているのでしょう。現代っ子には、いま述べたような自我理想がないわけです。彼女がどういう解釈をするかというと、ハンフリー・ボガード演じる主人公が、「とてもナルシスティックで、鼻について、キザだ。英雄ぶっている」ととらえるわけです。

 

[#地から1字上げ](映画「カサブランカ」の感動と無感動、一五七頁)

[#地から1字上げ](小此木啓吾、自己愛人間、朝日出版社、1981年)

 

そういわれてみると、最近の学生はその教授が一生懸命に自分のライフワークについて講義をしても、その学問的情熱に感動するよりは、「なんであんなにナルシスティックなのか。先生の自己陶酔につき合わされるのはかなわない」といった目で先生をみてしまう。むしろ自分の学問についても、ちょっとつき離した評論家的なポーズで自分のことを語る先生の方が、親しみやすいということがあるようです。もっと評判がいいのは、タモリ化までいかないにせよ、やや自分を戯画化したり、クリティカルに話すような態度をとると、かっこいいとか、本当らしいという感じが伝わるようです。

 

[#地から1字上げ](映画「カサブランカ」の感動と無感動、一五八頁)

[#地から1字上げ](小此木啓吾、自己愛人間、朝日出版社、1981年)

 

ここで、娘のカサブランカ論に話をもどすと、娘のとらえ方では、自分が好きな女に対して、結婚したいから一緒に逃げようという方が人間的で正直である。それを諦めて夫と一緒に逃がしてやるなどというのは、自分本位で自己陶酔的ではあるが、肝腎のバーグマンの女心は無視している、国家とか愛国心とかレジスタンスとか、そういう観念や理想に酔って自分を意味づける人間くらい鼻もちならない人間はいない。それこそ自己中心の自己愛に陶酔しているにすぎないのに、いかにもそれが天下、国家に役に立つというようにヒロイックな態度で相手の女性に接しているのは、相手の女性にとっても鼻につくだろうというわけです。

 

[#地から1字上げ](映画「カサブランカ」の感動と無感動、一五八頁)

[#地から1字上げ](小此木啓吾、自己愛人間、朝日出版社、1981年)

 

そして、もう一つ娘が感じたのは、この映画を男女の三角関係としてみた場合の男女関係感覚についていけないという点です。たとえ、アメリカへバーグマン夫婦を逃がしてやっても、自分の妻が主人公のボガードのことを好きだということがわかっているのだから、たとえ思想家としては尊敬しているにしても、好きでもない夫と一生暮らしていくとき、バーグマンの女心の中にはいつも好きな男への思慕の情が残っているのだから、決して夫婦はうまくいかないだろう。それは欺瞞的なことなのだから、本当にボガードのことが好きならば、あそこで断固踏みとどまって一緒になる方がいいんじゃないかというわけです。

 

[#地から1字上げ](映画「カサブランカ」の感動と無感動、一五八頁)

[#地から1字上げ](小此木啓吾、自己愛人間、朝日出版社、1981年)

 

そして、本当は他の男が好きだとわかっている妻を無理やり連れていって、これから一緒に暮す夫もかわいそうじゃないか。でも、夫の方も、思想運動をたてにとって、そのために妻が犠牲になるのは当り前だという顔をしているのは、なんともエゴイスティックで鼻もちならない。結局あの映画は、男同士のナルシシズムのドラマであって、女の人格はあまり認められていないというように、娘の解釈はなるわけです。

 

[#地から1字上げ](映画「カサブランカ」の感動と無感動、一五九頁)

[#地から1字上げ](小此木啓吾、自己愛人間、朝日出版社、1981年)

 

なぜ娘のような解釈になってしまうかというと、「カサブランカ」には、戦争を背景とした歴史的、思想的な意味づけがあって、その中で登場人物たちが自我理想にかなった生き方をするために個人中心的な生き方を犠牲にするところにドラマの感動があるのに、その自我理想の部分を全部共有しないで見ているからです。そうすると、本当はエゴイスティックな自己愛だけの人間が、奇妙にホンネを隠してかっこばかりつけているというように見えてしまうわけです。

 

[#地から1字上げ](映画「カサブランカ」の感動と無感動、一五九頁)

[#地から1字上げ](小此木啓吾、自己愛人間、朝日出版社、1981年)

 

このように、娘と私たちの世代では映画の解釈一つにも大きな違いがあります。現代(1981年当時)は娘が解釈したような世界になってしまっています。そうとしか解釈できないわけです。さて、パーソナルな自己愛だけの場合と、自我理想によって意味づけられた自己愛の場合の違いを、「カサブランカ」に関連づけて説明すれば、「カサブランカ」の主人公は自らのヒロイズム(自我理想と一つになることでの自己愛の高まり)によって、自分の愛欲を棄て、恋人への愛着を断念して、自ら危険に身を投じたわけです。もし彼が、身の安全をはかり、好きな女と一緒に暮らすことを選んだとしたら、ボガードはただの酒場のオヤジ、バーグマンはその愛人にすぎない存在になり、思想も主義主張もない虚無的な暮らししか後に残らなかったでしょう。しかし、まさに現代の男女はそうした主義主張を失った眼前の満足本位の暮らし方を、より人間的で幸せなものと考えるようになりました。

 

[#地から1字上げ](映画「カサブランカ」の感動と無感動、要約、一六〇頁)

[#地から1字上げ](小此木啓吾、自己愛人間、朝日出版社、1981年)

 

どうして?

君も行くんだ

でも……

おれはここに残る

何を言うの!今更……

皆のために考えろと

言ったろう

君はラズロと一緒に

行くのが一番いい

君が残ったら

どうなると思う?

君もおれも

収容所行きだぞ

そうだろうな

追っ払うの?

君はラズロのものだよ

彼の仕事の一部だ

行かないと後悔するよ

今はよくても

きっと一生、後悔する

あなたは?

君と幸せだったパリの

思い出があるさ

ゆうべ、よみがえった

もう離れないと誓ったわ

忘れないよ

おれにも仕事がある

君がいたらできない

おれはこんな男だが――

狂った世界を

黙って見ちゃいられない

そのうち君にも分かるさ

君の瞳に乾杯!

 

[#地から1字上げ](映画・カサブランカ