はじめに
二〇一九年にはじまった新型コロナウイルス感染症の大流行下、ロシア軍のウクライナ侵攻が続くなか、この「はじめに」は書かれているのだけれど、第二次世界大戦終結から七七年、東西冷戦時代を経て市場原理が地上をあまねく支配し、こと経済活動については国境が陳腐化しつつあるにもかかわらず、いや、だからと云うべきなのか、国民国家の内向きの閉鎖性、自己中心的な振る舞いがいよいよ目立つようになりつつある。これはおそらく資本制の回転運動が臨界に達しつつある状況で、それとどっぷり結びついた国民国家が見せる病的(とあえて云う)兆候なのだろう。排外主義的ナショナリズムの狂熱が国民国家を無茶な行動に駆り立て、厄災を惹起する危険は、二一世紀の今後ますます増大していくだろうと憂鬱に予想せざるを得ない。
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、三頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
で、日本はどうなのか。といえば、アジア・太平洋戦争敗戦から七七年、米国の無自覚な「属国」となって「戦後」平和の褥に微睡んできた。「平和ボケ」などと揶揄されるこのあり方は、勝者である米国の政策であったが、一方では、なんでもいいからとにかく戦争だけはもう御免だという、日本国民の強い意思ゆえでもあった。経済白書に「もはや戦後ではない」と記されたのは、自分が生まれた一九五六年、それから幾度も節目節目に「戦後の終わり」は唱えられてきたが、考えてみれば、語義からして、「戦後」が終わるとは次の戦争がはじまると云うことなのであって、その意味では、長い「戦後」の継続は国民の意思の貫徹だったとも云えるだろう。
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、三頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
もちろん、それと引き換えに日本が抱え込んだ問題は多々ある。終わりが語られてきた「戦後」とは、すなわち戦後体制のことなのであって、「戦後」を持続させるためにも、いまや戦後体制の清算・変革は必要であるだろう。さしあたっては、米国への従属状態をどうするかが一番の問題となろうが、べつにそれでいいじゃない、平和ならば、との意見の是非はともかく、果たしていつまで米国が日本をわりと幸せな「属国」の地位に置いてくれるか、いまのままのあり方で果たして平和が本当に維持できるのか、雲行きは怪しい。
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、四頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
永遠に戦争のない世界。日本国憲法にも響くこの理想は、人類が苦難の末に獲得した理念であり、失ってはならないが、日本が新たな「戦前」のただなかにあるのはまちがいなく、「戦後」を継続するためにも、「戦前」体制の整備は喫緊の課題となるだろう。「戦前」体制というと、しかしどうしても不吉な響きがしてしまうのは、二〇世紀前半の昭和「戦前」体制が、自国民だけで三百万人を超える、侵略したアジア地域や交戦国を含めた二千万人もの死者を出す未曾有の厄災に繋がった記憶があるからだ。しかもいまなお昭和「戦前」に懐旧の情を抱き、それをほとんどパロディーのごとくに再構しようと欲する政治勢力が存するから厄介だ。だが、いま求めらるべきは、昭和とは違う「戦前」、戦争をしないための「戦前」体制の構築である。
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、四頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
そう考えるとき、昭和「戦前」体制がどうしてあのような悲惨な戦争に繋がったのか、検討することは必須の作業となる。「あのときはどうかしていたんだ」と思考を停止し、「まさかもうあんなことになるわけがない」と嘯いている場合ではない。人間でいえば、そういう人が一番危ないことを私たちは知っているわけで、根強く蔓延る過去の否認への傾きに抗していかなければならない。
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、五頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
国民国家の統合には、神話を典型に、何かしらの「物語」が必ず要る。自分たちが何者であるか、人々は「物語」を参照して理解する。日本を含め多くの国民国家は太古の「物語」を統合の礎に据えてきた。だが、市場経済の絶えざる拡大と技術革新が、グローバル化などと呼ばれる国家間の密な関係を作り出した現今の世界にあっては、近代の歴史を、近代以降に共有されてきた歴史的経験を、国民統合の土台にすべしと自分は考える者だ。国民国家が近代に生まれたこともあるけれど、なによりは、そうでないと国家間の対話が難しくなってしまうと思うからだ。「私たちとしては、あれです、天壌無窮の神勅に従って八紘を一宇に纏めたいと思っております」では対話にならない。それは日本以外の国も同然である。
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、五頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
日本の近代以降の歴史を問題にするとき、アジア・太平洋戦争の経験を度外視することはできない。少なくとも敗戦後、戦争の経験を出発点に、新たな国民の統合を目指した人々が多くあったことはまちがいなく、自分はその志を継承する者のひとりである。どうしてあのような戦争を日本はしたのか。このことは「戦後」繰り返し論じられてきたが、むろんまだまだ論じ尽くされてはいない。新資料が発掘され、研究が進みつつあることもある。しかしそれ以上に、それは繰り返し問われ論じられることで、はじめて国民の経験、すなわち歴史となるからだ。
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、六頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
対談中幾度も論じられているように、歴史は「物語」の形でしか語られ得ず、またそうならなければ人を動かす力を持ち得ない。多くの国々で、明白に贋物とわかる歴史の「物語」が流通する現状があるのも事実だ。これは非常な難問だけれど、歴史は、いまを生きる者が、過去に問いかけ、言葉を通じてそれを繰り返し経験することで生命をもつ何かであることもまちがいない。歴史が死物でなく、生きていることを証するのは、それが批評の力を発揮するときだと云い得るだろう。批評さるべきものとは、固着し硬化した「物語」である。繰り返し問いかけられるべき言葉の「場」として歴史が措定され、人々に共有されてはじめて、異なる国民国家に属する者同士の対話も可能になるだろう。粘り強く歴史に問いかけていくしかないのだ。
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、六頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
そしてそのようにアジア・太平洋戦争の歴史を問うことは、戦争で亡くなった方々の霊を慰める営みでもあるだろう。彼らの死を犠牲の死として捉えること。それには死者を神話的な「物語」に閉じ込めてはならない。彼らを歴史のなかに、人々が対話的に交わる「場」として歴史のなかに、絶えず解放し続けなければならない。神話ではなく、対話を!
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、七頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
本書は日本近現代史の研究者である加藤陽子さんと共に、アジア・太平洋戦争の起源を語り合ったものである。加藤さんが示された歴史学の最先端の知見と洞察は、アジア・太平洋戦争をめぐって流通してきたこれまでの「物語」を強く批評するものだ。実際自分は対談のなかで、長らく抱いてきた歴史像が驚きとともに覆される経験を幾度もした。……
[#地から1字上げ](奥泉光、はじめに、七頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
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奥泉 この第Ⅲ部では、手記や日記、文学作品などを取り上げてみたいと思います。
まず外せないのが、清沢烈『暗黒日記』です。これは資料集的な色彩も強い本ですよね。新聞雑誌の切り抜きが編集されて、戦争中の、いわゆる銃後の日本で、後から見るとどうかしていたとしか思えないような精神状態にマスコミや言論人がはまりこんでいく様子がビビッドに描かれているのが興味深い。人々が具体的にはどのような発言をし、国家が、国民が、狂信的な精神主義にはまっていくドキュメントとして読めます。
加藤 そうです。たとえば、一九三三(昭和八)年頃の話として書かれていますが、清沢の子どもが、中国人――当時のそのままの表現では「支那人」ですが――を敵国人だと無邪気に思いこんでいるさまに愕然として、なぜ君は中国人が日本人の敵だと考えるのかと清沢が問いただす場面が『暗黒日記』第一巻の冒頭に出てきます。当時七歳だった子息が壁にかけてある写真を指さして「じゃ、あの人と戦争するんですね」「だって支那人でしょう。あすこの道からタンクを持って来て、この家を打ってしまいますよ」などと言う。子どもは、「講談社の好意で寄贈してくる少年雑誌」などを夢中で読んで、こう考えるようになってしまったことが子どもの話で判明する。清沢は、「この空気と教育の中に、真白なお前の頭脳を突き出さねばならんのか」と思って、気落ちする。そこで、当時の空気を書き残しておかなければならないと思い立ったわけです。
[#地から1字上げ](戦争を支える気分――清沢烈『暗黒日記』、二〇九頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
加藤 もう一つ、『暗黒日記』から紹介しておきますね。一九四五(昭和二〇)年一月一日の記事です。「日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない」。これも鋭い観察です。他者の立場を理解しようとしない日本の不自由さについては、同じことを吉田健一がこれまた鋭く捉えた文章があります。英国人についての文で、「相手の身になることができなければ相手を徹底的に苦しめるわけにはいかないからであって、自分が相手になり切った時に初めてその息の根が止められる立場に置かれる」と。英国人はある意味で相手になりきるところまでやる、そうすることで相手のいちばんの弱点に乗ずることができるわけです。逆に、日本人は目をつぶって清水の舞台から飛び降りる、目を閉じてしまっているわけです。相手の立場を観察しなければならないときにそれをしない。そうなると、自らの根拠のない楽観と願望によって、豊かなアメリカ人には、居住性の悪い潜水艦など乗りこなせないなどと考えて、相手の戦力を過小評価する。このような部分、『暗黒日記』は、よく捉えていると思います。
[#地から1字上げ](戦争を支える気分――清沢烈『暗黒日記』、二一一頁)
[#地から1字上げ](この国の戦争・太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)
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先生、女王笙子、あやまるな。別に誰かに迷惑をかけたわけではない。というか、迷惑をかけないように隠れて飲酒をしていたわけです。はっきり言って、いい娘さんじゃないですか。
諸君、他者危害原則における愚行権。強いて言えば、女王は自分(の健康)に迷惑をかけたのに過ぎない。その意味では、もはや自由の国とは思えない、19歳に対する幻想と不自由な事件(!)ではなかったか。乾杯!
[#地から1字上げ](自由よ、くたばれ、ルイス・ブニュエル「自由の幻想」)
[#地から1字上げ](人を楽しませてもらったんだ、ジョン・レノン)
[#地から1字上げ](ぼちぼち日本も天国です、黄桜カッパCM集)