愛子さまトーク(人への回帰)

最上河 上れば下る 稲舟の 否にはあらず この月ばかり

 

[#地から1字上げ]『古今和歌集』巻20 東歌(詠み人知らず)

 

さて、そういうふうに考えた上で、今度は我々の時代を振り返ってみる。昭和五十年、六十年代という言い方にあまり意味がない、つまり日本人であることにどうでもいいような感覚を僕らが、かなりの人が持った時代があった。つまり、自分はもちろん、日本語をしゃべり、日本国籍を持ち、この国の法律とかセキュリティに大きな恩恵を被っている、それは間違いないんだけれども、それらのことは非常に偶有的なこと――自分自身のアイデンティティにとってどちらでもよいこと――だという感覚が支配的だった時代があった。それが一九七〇年代、特に一九七〇年代後半から八〇年代だったように思うんです。

 

[#地から1字上げ](日本人への回帰)

[#地から1字上げ](大澤真幸、戦後の思想空間、ちくま新書、1998年)

 

ところが、現在どうだろうかと考えたときに、僕が思うに、これは皆さんの感覚でどうなのか聞きたいところでありますけれども、八〇年代末期以降は、日本の思想の文脈の中で、日本人であるということの自覚が非常に重要な意味を持ち始めている時期だと思うんです。いやがおうにも日本人という共同性の自覚が前面に出て来ざるをえなくなっている。戦後の中で、「日本人」という共同性の感覚が回帰してくる仕方は、ちょうど「天皇の国民」が「天皇なき国民」を経由して「国民の天皇」に帰ってきたときと同じような軌跡を描いているんじゃないか。

 

[#地から1字上げ](日本人への回帰)

[#地から1字上げ](大澤真幸、戦後の思想空間、ちくま新書、1998年)

 

このことを示す具体的な事例は、たとえば皆さんもよく知っている問題で言えば、従軍慰安婦問題ですね。従軍慰安婦の論争の各陣営の是非を論ずるのはここでの課題ではありませんから、そのことは別にしておいて、この論争自身をいわば「精神分析」してみますと、次のようなことが言えます。歴史の教科書を書き換えて、たとえば従軍慰安婦についての記述を削除すべきだと主張する人たちがいる。このとき賭けられていることは、日本人であるということ、日本人という共同性に同一化するということです。日本人であるということに回帰したいんですね。日本人という同一性に回帰するにあたって、しかし、現在では他国となっている領域の従軍慰安婦を凌辱したという事実を、抹消しておいて欲しいということです。言ってみれば、従軍慰安婦問題は過去の性犯罪のようなものなんです。性犯罪というのは、通常の犯罪とは異なり、その法的な軽重とは別に、強い羞恥心を喚起しますね。普通の犯罪の場合には、たとえば特にそれが確信犯的になされた場合には、犯罪者は、ときに、それをあえて隠そうとはしない、ということもありえますが、性犯罪の場合には、それがたとえ軽微な犯罪である場合でさえも、隠しておきたいと思う。つまり、性的なことというのは、自分の内的な秘密であり、自分自身の内的な本性のようなものでありながら、決して、表立って同一化できない部分を構成するのです。従軍慰安婦問題というのは、日本人というアイデンティティの中で、こうした同一化できない内密の部分にあたる。だから、これを、少なくともそれだけはノーカウントにしておいてもらわないと、日本人という共同性に帰属意識をもつことができない、というわけです。

 

[#地から1字上げ](日本人への回帰)

[#地から1字上げ](大澤真幸、戦後の思想空間、ちくま新書、1998年)

 

他方で、従軍慰安婦問題を媒介に日本が侵略したアジアの諸国への日本の戦争責任を問う側においても、やはり、日本人になるということが賭けられていると言えます。というのも、戦争責任を何らかの形態で担ったり、謝罪するためには、自分が日本人でなくてはいけませんからね。

 

[#地から1字上げ](日本人への回帰)

[#地から1字上げ](大澤真幸、戦後の思想空間、ちくま新書、1998年)

 

ですから、従軍慰安婦問題が急激に時代のイシューになっているということは、日本人であるという自覚が何か切迫したものになっている、そういう時代背景と関係があるんですね。このカーブの描き方は戦前にも同じようなものがあった、と僕は思うわけです。

 

[#地から1字上げ](日本人への回帰)

[#地から1字上げ](大澤真幸、戦後の思想空間、ちくま新書、1998年)

 

 

先生、われわれは、以前、日本国籍を取得したハワイ出身の武蔵丸は、われわれ日本人と同様に、戦前の真珠湾奇襲攻撃を反省して、現地のアメリカ人に謝罪しなければならないのかと世界の中心で愛を叫んだことがありました。そういう時代背景と何か関係がありますか。

 

諸君、何が明白な事実かは、歴史家がひもとくもの。今はまだそれしか読んでいません。

 

[#地から1字上げ](百合子とフィフィ)

[#地から1字上げ](よそもの・わかもの・ばかもの)

[#地から1字上げ](この国の戦争、太平洋戦争をどう読むか、河出新書、2022年)

 

広き野をながれゆけども最上川

うみに入るまでにごらざりけり

 

[#地から1字上げ](昭和天皇