俳句、来るべきもの(秋山図)

蔦の葉は昔めきたる紅葉かな 芭蕉

 

[#地から1字上げ](足音をたのしむ橋やえびかづら――芭蕉

 

それから五十年後、この話を煙客先生から聞かされた私は、その一月後、南方への旅のついでに、煙客先生からもらった紹介状をもって、潤州の張氏の家を訪ねようとする。が、その途上、「秋山図」は既に、親戚筋の王氏の手に渡っているという噂を耳にしたので、王氏の家を訪れてみる。王氏も喜んで、その秋山図を披露してくれた。しかし、私の直観では、この「秋山図は、昔一たび煙客翁が張氏の家に見たと云ふ図と、確に別な黄一峯」であり、「その秋山図よりも、恐らくは下位にある黄一峯」と思われた。遅れてやって来た煙客先生も、王氏の手前、直接そうとは言わなかったが、やはり同意見であった。最後にやって来た廉州先生だけが、本心から、「これは癡翁第一の名作でせう。」と感嘆する。

 

[#地から1字上げ](「秋山図」論――美の心象、あらすじ、一〇一頁)

[#地から1字上げ](大里恭三郎、芥川龍之介、審美社、1990年)

 

『秋山図』は一読したかぎりでは、それこそ狐につままれたような印象を受ける。作者はここで、惲南田と同じ立場にたって、〈王氏の秋山図が、張氏の秋山図と同じものであろうとなかろうと、それはどっちでもよいではないか。人の心にその秋山図の美しいイメージが生き続けているのなら……〉と言っているのであろうか。

 

[#地から1字上げ](「秋山図」論――美の心象、一〇二頁)

[#地から1字上げ](大里恭三郎、芥川龍之介、審美社、1990年)

 

真贋とは何か。偽作であろうと、真作として世間をまかり通り、それなりに人を感動させ、その感動がもととなって、さらに創作を産んだなら、どうなるか。仮構の世界においては、〈虚〉が〈実体〉をしのぐがゆえに、そのはてに、偽物のなかに、真物のおもかげを見るのが、生存のゆたかさである。

 

[#地から1字上げ](由良君美、秋山図讃、縮約)

[#地から1字上げ](「秋山図」論――美の心象、一〇三頁)

[#地から1字上げ](大里恭三郎、芥川龍之介、審美社、1990年)

 

最後の惲南田の言葉から、「〈実証主義〉への嘲笑」を聞き取るのは自由であろう。しかし、惲南田の言葉は真偽を問題とするところからは発せられていない。彼は、偽作が真筆を超える場合もあるのだから、王氏の秋山図が仮に偽作であったとしても一向かまわないではないか、と言ったのではない。彼は、絵そのものがなくても、イメージとしてそれが脳裏に存在しているなら、それでいいではないか、と言ったのである。「〈虚〉が〈実体〉をしのぐ」だとか、「偽物のなかに、真物のおもかげをみる」だとかいった由良氏の解釈は、作品そのものから離れた饒舌と言わざるを得ない。

 

[#地から1字上げ](「秋山図」論――美の心象、一〇四頁)

[#地から1字上げ](大里恭三郎、芥川龍之介、審美社、1990年)

 

『秋山図』の主題について、これまでに最も深い解釈をしているのは、吉田精一であろう。

 

[#地から1字上げ](「秋山図」論――美の心象、一〇四頁)

[#地から1字上げ](大里恭三郎、芥川龍之介、審美社、1990年)

 

『秋山図』の主題は、一言で言えば、芸術はそれを見る人の心のありようによって様々な表情を見せるということであろう。秋山図に対して、煙客、王石谷、廉州の三人は、それぞれの心理・心境で向かっていたのであり、秋山図はそれらの目に応じた映像として映し出されていたのである。王氏一人が、自分の所有している秋山図に関して何の見識ももっていないのは、彼が、ただ世評に動かされてそれを我物にしたに過ぎないからである。

 

[#地から1字上げ](「秋山図」論――美の心象、一〇六頁)

[#地から1字上げ](大里恭三郎、芥川龍之介、審美社、1990年)

 

――女優・芦田愛菜ちゃんは芥川派である。その上で、彼女のお薦め作品は「蜘蛛の糸」「羅生門」「鼻」、そして「英雄の器」。何か足りないとは思わないか。

 

答え すいません。芥川の「英雄の器」なんて読んだことがない。