渋野日向子(26)「ハデハデだけど、スポーティーな感じ」「カラフルな1年に」
上沼恵美子(69)「PR会社の社長さん、べっぴんさん。きれいな方。圧勝したことがうれしくて、『あたしが当選させたんだよ』と言わんばかりの」「しゃべりすぎたと言うか、いらんこと言った」「やっぱり、女は無口がいい。PR会社やってるんやから、そんなこと言うたらあかん」
三浦瑠麗(44)「『今世間がたたきたい女』をたたくためには何でもありの日本」「上沼恵美子さんのような『ご意見番』が『やっぱり女は無口がいい』とうっかり言えば、その偏見を疑問も持たずにお茶の間に垂れ流してしまう」
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質問)
オーヘンリーの緑のドア(The Green Door)とはどのようなお話ですか?流れを具体的に教えてください。
回答)
ある冒険好きな青年が夕方通りを歩いていたらビラ配りの人がビラをくれた、しかしそのビラは他のビラと中身が違い「緑のドア」と書いていた、ためしにもう一回ビラをもらったらやはり「緑のドア」と……。冒険好きな青年の血が騒ぎ近くの建物の中に入ったらそこには緑のドアがあった。もちろん青年はそのドアをたたき様子をみると妙齢の女性がドアを開け青年の姿を見てその場で倒れこんだ、みたいな話です。オチももちろんありますのでここから先は読んだほうがいいでしょう。オーヘンリーは意外な結末というのが多いですが、この話はまあそんなでもない作品だと思います。
質問)
オーヘンリーさんの「緑のドア」を読んだのですがオチの意味がさっぱり分かりません。誰か教えてください!
回答)
主人公は深読みしすぎたのです。
他の人には歯医者のチラシなのに、自分のチラシだけが「緑のドア」。これは何かのメッセージに違いないと名探偵コナンのような事を考え、(本当はチラシ配りが『緑のドア』という舞台のチラシを混ぜていただけ)、緑のドアを探して入ったら、本当に困った女性がいた。
なんでもない事から本当に冒険とロマンスを見つけてしまう彼はすごいじゃないか、というオチです。
[#地から1字上げ](YAHOO!知恵袋)
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O・ヘンリの短編 "The Green Door" を翻訳した。その過程で、既存の翻訳の解説や訳注でほとんど言及されていない、とある事柄に気づいた。
――「ミス・リビイ」とは誰か
かつて彼は、ある雑誌の編集者に、ミス・リビイ作の『ジュニイの恋の試練』ほど自分の人生に大きな影響をあたえた書物はない、と書き送ったことがある。
[#地から1字上げ](新潮文庫、大久保康雄訳)
しかし、ルドルフにとっては、この身の上話は、『イリアッド』か、あるいは『ジュニイの恋の試練』の危機一髪の場面と同じくらい重大なことに思えた。
[#地から1字上げ](新潮文庫、大久保康雄訳)
「ミス・リビイ」ことローラ・ジーン・リビー Laura Jean Libbey(1862~1924)は実在した作家だ。19世紀中頃から20世紀初頭にかけて急増した低賃金の女子労働者(ワーキングガール)を読者とする廉価な小説「ワーキングガール・ノヴェル」を量産し、映画もテレビもマンガもない時代ということでばんばん売りまくったという。82冊をざっと1500万部くらい。デビューは17歳で、大半の作品を34歳までに書いた。
リビーの小説の内容は、おおむね「慎ましく清らかに生きるワーキングガールが、裕福な男性に見初められ、数々の試練を経て幸せな結婚をする」といった筋立て。このような展開の小説を指す「リビーもの(Libbey's)」という言葉もあったらしく、彼女はまさに第一人者と言える。『ジュニイの恋の試練』もそんな作品の一つだ。つまり、「ミス・リビイ」は20世紀初頭の読者にとってある種の“一般常識”だった。
(ところでなぜ「ワーキングウーマン」ではなく「ワーキングガール」なのか。当時の社会にとって「ウーマン(女性)」といえば、それは誰かの妻となり母となる人のことであった。さらに言えば「賃金労働をする母親」などという概念もほとんどなかった。「母親」とは「家庭で夫の代わりに家庭を維持し、子供を育てる存在」であることが自明だった。したがって、家を出て賃金のために働く彼女たちは「ウーマン」になる前の、あくまでも「ガール」ということなのだろう)
物語に戻ろう。主人公ルドルフの「緑の扉」探索は、失業し飢えに苦しむワーキングガールの発見に至る。つまり、「ミス・リビイ」への言及は、“ボーイ・ミーツ・ガール”の体で話を進めつつ、「ワーキングガールが男性に見初められる」という“ワーキングガール・ノヴェル”の構造を読者に想起させんとする仕込みと見るのが妥当だろう(娘の部屋は貧しさを感じさせつつきちんとしている的な描写がある)。
――なぜ、スルーしたのか
O・ヘンリが他の作品にもたびたび登場させている「ワーキングガール」は、アメリカの産業資本主義社会の発達が生み出した「働く女性」のさきがけである。過酷な労働と低賃金、そして女性であるがゆえの理不尽な待遇。そんな「ワーキングガール」が幸福を掴むという、リビーのご都合主義の物語が人気を博したのは、ある種の貧困ビジネスのようなものと思えなくもない。その荒唐無稽を批判する社会活動家もいたという。しかし平易な文体で書かれたリビー作品によって英語を習得し社会に同化した移民出身者の存在や、アメリカ自然主義文学作家セオドア・ドライサーへの影響といった周辺状況も含め、ただ一時のブームを巻き起こしただけの徒花としてではなく、その社会的意義をアメリカ文学史にとどめておくべきであると思う。
にもかかわらず、今まで「緑の扉」の邦訳は「ミス・リビーの『ジュニィの愛の試練』」を、なんの注釈も付さずそのまま読者に投げつけてきた。(2019年7月21日追記:岩波文庫の大津栄一郎訳で、アメリカの女流作家であることと、その生没年を記しているのを確認した)。常盤新平訳『恋人たちのいる風景 O・ヘンリー ラブ・ストーリーズ』は、収録作「春のア・ラ・カルト」でチャールズ・リードの『修道院と炉辺(僧院と家庭)』に訳注を付けておきながら、「緑の扉」の「ミス・リビー」をスルーした。ワーキングガール・ノヴェルはハーレクイン・ロマンスのはしりとも言えるはずだが、ハーレクインで訳業を始めたという金原瑞人訳の岩波少年文庫O・ヘンリー作品集『最後のひと葉』さえ、そこに収録されている「緑の扉」の「ミス・リビー」については一言のことわりもなかった。大久保訳も、いちいちあれこれ文中に注記しながら、ミス・リビーには知らん顔だ。
リビーはほとんど忘れられた作家であり、手がかりが少ない。(これも「女性が、女性ゆえに軽んじられてきた」ということであるかもしれない。履歴を確認したところ、英語版 Wikipedia でさえ内容が充実してきたのは2018年からだった)。
――結論
そういうわけで、今後の「緑の扉」の翻訳に当たっては、「ミス・リビーの『ジュニィの愛の試練』」についてのしっかりした注釈が必要だろう。ローラ・ジーン・リビーの小説は忘れ去られたが、後に続く大衆文芸の揺籃を窺うこともできるし、「ワーキングガール」の苦境は現代にあって完全に解消したとはいいがたい。当時のアメリカ社会の一断面から、現代を生きる我々に地続きの問題意識が引き出されることもある。書籍の注釈は、ときに読者の関心に応じて道標となるものである。
[#地から1字上げ](O・ヘンリー「緑の扉」翻訳後記(ワーキングガール編)
[#地から1字上げ](ブログ・そこにいるか(要約)
[#地から1字上げ](2179字)
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先生、投書が来ています。そこにいるかさん、いい仕事してるねえ。
諸君、感謝の意味だったら、今年の漢字一字は「謝」ではないのか。
AMK「この投稿どうなん?」
FCH「今年の漢字は感謝の「感」…」
FHK「おいしいだけで、しあわせだ」
【写真】ブリキのパンツ
【写真】沈黙を続けるAマッソの加納さん
【写真】宮崎駿「日本人は忘れてはいけない」(つづく)