技法(technique)とは、ある技(art)の規則を対象に応用することを指すものだが、その過程で、技の意味は、微妙だが重大な変化を被ってきた。技法的なものは、機械的なもの、生きていないものを扱う規則に適用されてきた。それに対して、生きているものを扱うのに適切な言葉は「技」である。このような理由から、精神分析的「技法」という概念には欠点があると言える。なぜなら、それは生きていない対象にふさわしいものなのであり、したがって人間には応用できないように思えるからである。
我々が確かに言えることは、精神分析は人間の心、とりわけ意識されていない部分を理解する手続きである。それは詩の理解にも似た技=アートである。
すべての技と同様に、この技はそれ自体の規則と規範がある。
[#地から1字上げ](第十一章 精神分析的「技法(テクニック)」
[#地から1字上げ](――あるいは耳を傾けるという技(アート)、三一八頁)
[#地から1字上げ](E・フロム、聴くということ、第三文明社、2012年)
セラピー的過程の目標は、無意識的な(つまり抑圧された)情動や思考を理解することであり、その原点と作用について、気づき、理解することである。
その不可欠な規則は、患者に、できるだけ何でも言うように指示することである。何か言わないようにしているものがあるなら、患者はそのことを述べるべきである。特に強調されるのは、患者にはいかなる種類の道徳的義務もなく、真実を言う義務さえないということである。(患者が嘘をついたら、最終的には分析者が気づくべきである。気づかないのは、分析者が適性を欠いている証拠なのだから。)……
セラピー的関係は、礼儀正しい会話や世間話の雰囲気ではなく、率直さを特徴とするものでなければならない。いかなる嘘も、精神分析家は表明してはならない。分析者は、患者を喜ばせようとしたり、印象づけようとしたりしてはならず、自分の領分にとどまり、自分を見失わないようにしなければならない。そのようになるためには、自己分析を積み重ねていることが必須である。
[#地から1字上げ](第十一章 精神分析的「技法(テクニック)」
[#地から1字上げ](――あるいは耳を傾けるという技(アート)、三一九頁)
[#地から1字上げ](E・フロム、聴くということ、第三文明社、2012年)
聴くことの核心は、主体として他者に接して「聞こえたことを言う」ことである。これは単なるおしゃべりとは違う。フロムが言う「取るに足りないおしゃべり」とは、物象化された死んだ事柄についての、生と関わりのない、リアリティのない語りである。これは分析においては避けるべきことであるという。というのも、真理の探究のための対話というより、真理に直面することへの抵抗の一種だからである。
取るに足りないおしゃべりとは対照的に、フロムは集中、静寂、瞑想を、自己分析の前段階として重視している。これは、物象化された世界についての「取るに足りないおしゃべり」の連鎖を寸断することだと訳者は考えている。こうした一種の瞑想状態においてフロムの言う「聴くこと」は可能となるのである。
[#地から1字上げ](「取るに足りないおしゃべり」と、集中、静寂、瞑想、三三九頁)
[#地から1字上げ](訳者解説――総合的理解のために、堀江宗正)
[#地から1字上げ](E・フロム、聴くということ、第三文明社、2012年)
言うまでもなく、現代においても人間の本質的な条件はまったく変わっていないにもかかわらず、物質的なテクノロジーの驚異的な変化や発展に目を奪われている現代人は、自分は何ものであり、自分らしく生を十全に生きているのか、という人間存在の本質の問いへの応答力はむしろ弱体化している。その空洞を満たすために「いかにあるか」よりも「いかに所有するか」「いかに時間を消費するか」「いかに社会に受け入れられるべきか」に狂奔し、物事の本質を考える集中心や確信が持てなくなっていることにフロムは警鐘を鳴らしている。
フロムは愛すること、生きること、聴くことの技術を「テクニック」ではなく「アート」と表現する。本書の十一章において両者の違いを簡潔に概説しているが、そこには深い意味が含有されている。テクニックは機械的な方法論であるが、アートは職人芸のように人間のとぎすまされた感覚と経験、見識を魂によって統合させる技である。現代は機械的なテクニック至上主義であり、一つひとつの分析は当を得ても全体を統合する力を欠いた社会的な統合失調症候群とでもいうような時代でもある。アートは精神の集中とバラバラにされた破片をつなぎ合わせるには人間のヴィジョンと包容力を必要とする。時代の潮目の今日にあってこそ、まさに人間の復権、人間らしく生きることの重大さを本書を通しフロムに学ぶ価値はいまだに大きいと信じる。
[#地から1字上げ](三七〇頁)
[#地から1字上げ](訳者あとがき、松宮克昌)
[#地から1字上げ](E・フロム、聴くということ、第三文明社、2012年)
しかし、これがうまくゆくのは良性神経症に限る。フロムは、治療困難な「悪性神経症」があることを分析者は認めるべきだという。同時に、たとえ悪性の神経症を患っている人が治らないとしても、その分析の時間を「生に満ちた」時間にするべきだともいう。前訳書『よりよく生きるということ』(第三文明社)では「取るに足りないおしゃべり」をし続ける人や「悪い仲間」を避けるべきだと言うが、どうしても対面しなければならないときは、人間として真剣に関わることで気づかせることが大事だとも言っている。救い切れない悪があるという限界を認め、身を守りつつも、関わらなければならないときは人間として関わる。それがフロムの姿勢なのである。
[#地から1字上げ](健康への生得的希求、バイオフィリア(生命愛)、三四二頁)
[#地から1字上げ](訳者解説――総合的理解のために、堀江宗正)
[#地から1字上げ](E・フロム、聴くということ、第三文明社、2012年)
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選挙の投票率を上げるには?
EXIT・兼近は“義務化”に賛成「納税は義務なのにフェアじゃない」
石破総理「自民党では常に少数説だが、投票は義務化すべきだと思っている。この国や地域がどうなろうが知ったことではありませんというのは、私はいいことだと思っていない」
兼近「僕は大賛成」
兼近「納税は義務化されているのに、その税金を使う人を決めるのはなぜ義務ではない?それなら納税も好きな人だけするようにしないとフェアじゃないでしょ?と、いつも思っちゃっている」
兼近「税金はきちんと徴収するのに、投票に関する知識は与えてくれない。国民が政治に興味がない方が、政府は助かる部分もあるのでは?と思っている」
兼近「日本には『勉強してないなら喋るな』『できないならやるな』みたいな風潮が根付いていると感じる」
兼近「こうやって何もしない人が大半を占めると、行動を起こした人が自ずと得をする。そうやってお金持ちになった人が庶民になんとなく分配して、その少ないものでも庶民が幸せを感じられるのが日本。『なんか幸せだから、まぁいっか』が続いてしまって、いい意味でも悪い意味でも国を信用してしまっているから、選挙に行かなくてもいい国になっている。今後絶望的な何かが起きた時に初めて選挙に行くようになるのでは?」
兼近「投票に行かない人たちは“大きな損”をしていないように見えて、“ちょっとした損”はしているはず。それを意識して欲しいなと思う」
りんたろー「今回の衆院選では、キャッチーかつ聞こえの良いメッセージを発信すると、響く層があることがわかった。そして、投票に行った人は自分が投じた一票に責任を持つというか、その後の政治にも興味を持ち続けるのかな?と思う。投じた先が失敗に終わったとしても、それはそれで学びに繋がるから、まずは選挙に行って学んでいくのもアリなのでは?」
[#地から1字上げ](ENTAME next によるストーリー)
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本書の編集作業が終盤にさしかかった九月下旬になって、突然、安倍首相は衆議院解散総選挙にうって出た。これを保阪正康さんは「国民愚弄解散」と評した(毎日新聞十月九日掲載)。
[#地から1字上げ](対談のあとで、二二二頁)
[#地から1字上げ](憲法を百年いかす、筑摩書房、2017年)
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先生、投書が来ています。まぁいっかー。
諸君、なんか幸せだから、私は泳げない。
AMK「この投稿どうなん?」
FCH「口紅にミステリー?」
FHK「女王蜂!」
Lully「上沼さん自身、森さんのときに『どうしても『男は--』『女は--』っていうの言う』とわざわざコメントしておられたのにね」
【写真】ブリキのパンツ
【写真】イノシシから宇宙まで――
【写真】沈黙を続けるAマッソの加納さん
【写真】宮崎駿「日本人は忘れてはいけない」(つづく)